わたしは朝が弱いので、1時間に1本ある乗車駅始発の電車に乗って、ゆっくり座って通勤することに決めている。
でも今朝はちょっと勝手が違った。
昨夜、家に仕事を持ち帰り、遅くまでかかってようやく報告書類を仕上げたため、すっかり寝不足。
電車の席に座るや、いつの間にか熟睡してしまい、下車駅でハッと目が覚めた。

「すみませーーん!」と大声出して人を掻き分け、ドアが閉まる寸前に電車を飛び降りたところまではよかったが、
大事な書類を電車に置き忘れてきたことに気づいた。
すぐに遺失物受付の事務所に報告すると、忘れ物の受け取り駅はここから5つも先の駅とのこと。
しかたなく再び電車に乗って受け取り駅まで出向いて、ドキドキ待つこと30分。 なんとか無事に書類は戻ってきた。
わたしは受け取りの用紙にサインし、「助かりました。これとっても大事な書類だったんです。」と駅員さんにお礼を言って
事務所を出た。
そんなわたしのやりとりの一部始終を影から見ていた男性がいたなんて、わたしはその時気づくはずもなかった。

(ああ、せっかく早く家を出たのに、これじゃ遅刻ギリギリになっちゃう・・・) 再び会社のある駅まで電車に乗ったわたしは
時計を見ながら気が気でなかった。
電車は超満員で当然座れるはずもなく、バッグを肩に、片手に書類、片手で吊り皮を持ったまま身動きできない状態だった。
電車がガタンと揺れ、将棋倒しになりそうな左サイドからの圧迫に、吊り皮を持つ手をブルブル震わせながら耐えたその時、
お尻をムズッとつかむ手を感じ取った。 (ハッ、痴漢?)

とっさに頭だけ動かして後ろを振り向いたら、そこには真っ黒に日焼けした若い男性が立っていた。
しかし、よく見ると男性の片手は吊り皮にあり、もう一方の手も大きなバッグを握り締めている。
(この人じゃないわ・・・・気のせいかも。)

わたしがそう思って正面を向き直った瞬間、今度は背後から両胸をムギュッとつかみかかられた。
(今度は間違いないわ!) 再びうしろを振り向くと、例の色黒男性と目が合った。
男性はすぐにそっぽを向いたが、やはり両手は先ほどと同じくふさがったままだった。
(このすし詰め状態で両手を離して体をさわることなんか不可能だわ。やはりこの人じゃないみたい。)
とうとう犯人は不明のまま電車は目的地の駅に着き、ドット溢れ出る人の群をかき分けわたしは駆け足で会社に向かった。
学生時代に陸上をやっててよかったと実感する瞬間だ。

デスクにつくと待ち構えていたように瀬久原課長がわたしに言った。
「キミにしては、珍しくギリギリの出社だね。さっそくだが、この会議資料、コピーしてきてくれないか。」
「す、すみません。ちょっと寝坊しちゃいまして・・・」 わたしは資料を受け取るとオフィスの片隅にあるコピー機に向かった。
わたしがコピーを取っていると、オフィスの入り口付近が急に騒がしくなった。
「やぁ~、お帰り!出張ご苦労だったね!」 「ホント、ホント、2週間も海外に行くと疲れちゃいますよ!あははははは」
コピー機からは直接入り口は見えなかったが、わたしにはだいたい察しがついていた。
わたしが営業1部・営業1課に配属された時、わたしのとなりのデスクが空いていたが、そのデスクの主は現在海外出張中
と聞いており、その人が帰ってきた ということだろう。

デスクの主の名は伊闇 遊象(いやみ
ゆうぞう)26歳。 坪根さんの話では“とっても優しい好青年”とのことだし、瀬久原課長
も、“仕事ができて人望が厚い理想のビジネスマン”とその人のことを褒めちぎっていた。
実はわたしは密かにこの未だ見ぬ青年に期待を寄せていた。
こんな素晴らしい人が戻ってきてくれたら、陰惨で辛いうちの職場の雰囲気もきっと変わるんじゃないかって。
わたしがコピーを終えてデスクに戻ると、「やぁ、ボク伊闇 遊象です。キミが今度うちに配属になった針筵さんだね。」
とその青年が明るく声をかけてきた。
わたしは内心ドキドキしながら「は、はじめまして。針筵 明日香です。どうぞよろし・・・」とそこまで挨拶しかけて青年の顔
を見てビックリ!
(あぁっ!!さっきの満員電車でうしろにいた日焼け顔の男性じゃない!!!)

わたしの驚いた顔を見て、ようやく伊闇さんも気がついたようだ。
「な、なんだぁ?キミたち知り合いかい?」と瀬久原課長が怪訝そうな顔でわたしたち二人の顔を見比べた。
「い、いえ・・・ぜんぜん知り合いなんかじゃありません。」 わたしはあわてて否定した。
(落ち着け、落ち着け・・・この人が痴漢だったという証拠はなかったじゃない。もっと平静に冷静に・・・)わたしは自分自身
に言い聞かせた。
「伊闇くぅ~ん。不在中、淋しかったわよ~。」と普段聞いたこともないような猫なで声で坪根さんが伊闇さんに話しかけた。
よく見ると坪根さんの目はウルウルし、頬はほんのり赤くなっている。(まさか、坪根さん、彼に惚れてるのかしら???)

「ボクだって、一人で出張なんて淋しかったですよ。はい、これお土産。」 伊闇さんはソツなく受け流してお土産をバッグ
から取り出して坪根さんに渡した。
「課長にはこれ。肝井くんにはこれね。」 伊闇さんは次々とバッグからお土産を取り出しては手渡していった。
「おぉ、ハワイといったらやっぱマカダミアチョコだよな!サンキュー。」と課長。
「せ、せ、先輩・・・こ、こんな過激な雑誌もらったら、仕事にならないっす・・・エヘヘヘ・・・すんません。」と肝井さん。
そんな微笑ましい情景を眺めていたわたしは、ふととなりのデスクに無造作に置かれていた伊闇さんの大きなバッグに
目を移し、その中にある不思議なものを見つけてしまった。 それは作り物の“手”だった。
次の瞬間、わたしの頭の中ですべての謎が一本の線でつながった。

唖然とした表情でバッグの中を見つめるわたしに気づいた伊闇さんは、いきなり、「あ、そうだ。キミにもお土産があるんだ。
ちょっと来てくれないか。」といってわたしをオフィスから連れ出した。
伊闇さんはわたしの手をつかんだままグイグイ廊下を進み、やがて人気のない倉庫室の前で立ち止まった。
「さあ、入って。」 伊闇さんは倉庫のドアを開けるとわたしを押し込むように中に入れ、後ろ手にドアをガチャンと閉めた。
わたしがドキドキしながら青ざめた顔で伊闇さんを見つめていると、伊闇さんの顔はさっきまでの好青年から一転して
不審な男性のそれに変わった。
「キミ、針筵くんて言ったっけ。あれを見たね。そして気づいたんだろ、あのこと。」

「な、なんのことですか?・・・・・わたしにはさっぱり・・・・」 わたしはわざとわからないふりをした。
「とぼけたってダメだ。 そうさ、オレがあの時の痴漢さ。さあ、どうする?訴えるかい?でも現行犯じゃないからムリ
だけどね。」 とすっかり伊闇さんは開き直っていた。
こうなったらしかたない、わたしもハッキリ言った。
「やはりそうだったんですね!しかも今もこんな監禁まがいなことをして!いったい、どういうつもりなんですか!?」

すると突然、伊闇さんはわたしのうしろに回りこみ、わたしの両腕を背中に回してものすごい力で押さえ込んだ。
「あぁっ・・・」わたしは必死にもがいたが、ガッチリつかまれた腕はビクともしない。 するとスルスルと別の2本の
手が伸びてきてわたしの胸を左右からまさぐり始めた。
「どうだ?オレが夜も寝ないで昼寝して開発したマジカルハンドだ。今キミの胸にある手がオレの本当の手さ。」

「い、伊闇さん!どうしてこんなひどいことを!大声出しますよ!」
「叫びたかったら叫ぶがいいさ。オレもキミが重要書類を電車に忘れたことを部長に言うから。」
「えぇっ!!ど、どうしてそれを・・・・・?」
そう言われ、わたしはただじっと耐えるしかなくなってしまった。 あの佐渡部長に弱みを握られるのだけは絶対にイヤ
だったからだ。

伊闇さんの復帰は、わたしのささやかな希望を打ち砕いたばかりか、むしろ今より状況が悪化することを決定的にした。
(救世主どころか、わたしを責め苛む拷問官がまた一人増えてしまった・・・・)
ショックに打ちひしがれたわたしの無抵抗の体を徹底的にいたぶる伊闇さんの淫虐な責めは、お昼のチャイムが鳴るまで続いた。
でも、わたし、負けないわ!

※この物語はすべてフィクションであり、登場人物および団体は実在しないものであります。