ここのところ連日の残業続きで、わたしはもう心身ともにボロボロになりかけていた。
それに追い討ちをかけるかのように降り注ぐ冷たい雨。 もう泣きたくなっちゃう・・・・・

その夜、わたしは会社帰りにいつもの駅前のコンビニに寄って明日の朝のパンを買い込むと、急ぎ足で家路についた。
こんな底冷えのする日は早くおうちに帰って、温かいお風呂につかり、熱~い紅茶で体中暖めたかったからだ。
待つ人もいない独り暮らしだったけど、気ままな今の生活をわたしはけっこう気に入っていた。
そう、少なくとも、この時までは・・・・・・。

わたしが自宅のあるマンションのエントランスに入り、傘をつぼめたその時、どこかで何か音がした。
おやっと耳を澄ませてみたが、ただ雨の音がするだけで何も聞こえない。
気のせいかなと思い、エレベーターのボタンを押そうとしたら、また音が聞こえた。
いや、音じゃない。それはニャァ~というか細い声だった。

(猫かしら?) わたしは声の主を探そうとあたりを見回したが、どこにも見当たらない。
(おかしいなぁ・・・) 首をかしげながらエレベーターのボタンを押したとき、再びニャァ~と声が聞こえた。
今度ははっきりとそれも足元で。
よく見るとマンションの入口脇の植え込みの影に、雨にずぶ濡れになって震えている小さな子猫がいるではないか!
「まぁ、こんなに濡れちゃって、かわいそうに・・・」

わたしは子猫に手を差し伸べかけて、ふと考えた。
(そうだ。このマンションはペット禁止だったっけ。かわいそうだけど、家に連れて行くわけにはいかないわ。ゴメンね。)
でも、子猫の訴えるような悲しげな目を見つめているうちに、わたしは何だか疲れきった自分の姿を見るような気がしてきて
どうしてもそのままにしておくわけにいかなくなってしまった。

(このまま見捨てるわけにいかないわ。別に飼うわけじゃないし、一晩おうちに泊まらせてあげるだけだから、ま、いいか。)
わたしは周囲に誰もいないのを確認すると、子猫をそっと抱き上げコートに隠すと、エレベーターに乗って自宅まで連れて帰った。

家に入るや、お風呂より前にまず子猫の全身をタオルで拭いてあげ、冷蔵庫から急いでミルクを出してきてお皿に注いだ。
子猫は小さくニャァと鳴くとペロペロとおいしそうにミルクをなめはじめた。
そんな様子をじっと見つめていると、なんだか妙に疲れた心も和んでくるから不思議なものだ。

「心配しないで、今夜は暖かいお部屋でゆっくり休むといいわ。」 わたしは夢中でミルクをなめる子猫に優しく語りかけた。
「さあ、今度はわたしが温まる番ね。」 わたしは濡れたコートを脱ぐと、お風呂のスイッチを入れようと立ち上がった。
その時突然、ピンポ~ンピンポ~ンと玄関のチャイムが鳴った。
(あら、こんな時間に誰かしら?) わたしは不審に思いながら玄関に立ってドアの小窓から外を覗くと、そこには管理人のおじさん
が立っていた。
ドアをそっと開け、「あら、管理人さん、何かご用ですか?」と問いかけると、管理人のおじさんは少々困惑した顔つきで言った。
「針筵さん、困りますなぁ、ルールを破られては。」

「ルール、ですか?」
「このマンションがペット禁止だということはご存知でしょ。あなたが猫を飼っているという通報がありましたもんでね。」
よく見ると管理人さんのうしろには意地悪そうなおばさんが立っていて、家の中をジロジロ伺っていた。
「わたし、猫なんか飼ってません。」 わたしはなんとかこの場を切り抜けようとして言った。
「じゃあ、中を確認させてもらいますよ。」 管理人さんとおばさんは、ずうずうしく玄関から中に入ろうとしてきた。
「あ、ちょ、ちょっと。何するんですか、待ってください!」 わたしは驚いて二人を止めようとしたが遅かった。
「ほらっ、言ったとおりでしょ!管理人さん。」 おばさんはミルクを飲み終え毛づくろいしている子猫を発見すると、得意になって
大声で言った。

「あ、こ、これは・・・ちがうんです!飼ってるんじゃありません。ただ、雨に濡れて鳴いてたもんですから、今晩一晩だけ・・・・」
わたしは必死になって弁解しようとしたが、二人はまったく聞く耳を持とうとしない。
「お願いです。こんな日に外に出したらかわいそうなので、せめて一晩だけここに置いてやってもらえませんか?」
「困りますなぁ。何と言われても、ルールはルールですからね。」
その時突然、身の危険を察知したのか、子猫はサッと走り出し、わたしたちの足元をすり抜けるようにして玄関から外に出ると
どこかに姿をくらましてしまった。
「さあて、ルールを破ったあなたには、いろいろとお話をしなくてはなりません。ちょっと一緒に来てもらいましょうかね。」
管理人さんとおばさんは唖然とするわたしの両腕をつかむと無理矢理廊下に連れ出そうとした。
「は、話って。いったい・・・こんな時間にですか?」
「つべこべ言わず、ついて来るんだよっ!」 躊躇するわたしに急に態度を豹変させた管理人さんは強引にわたしを引き出した。

「あ、あのぉ・・・ここ、なんなんですかぁ?!」 わたしが連れて行かれた部屋は、ゴミ置き場の裏手のドアから入って階段を降りた
ところにある地下室だった。このマンションにこんな部屋があったなんて、これまでまったく気づきもしなかった。
天井からぶら下がった裸電球の薄暗い光が、真っ暗な部屋の中央に置かれた頑丈そうな金属製の椅子を照らし出している。

「ここはマンション理事会の特別集会室さ。さあ、その椅子に座るんだ。」 管理人さんはそう言うと、わたしを無理矢理座らせた。
徐々に暗闇に目が慣れてくるにつれ、この部屋が窓はもちろん家具も何もないただ打ち抜きのコンクリートの壁に四方囲まれた
だけの殺風景なスペースであることがわかってきた。
さらに、わたしの背後に数人の人間がいる気配を感じ、わたしは驚きを隠せなかった。
そんな緊張するわたしの前にどこからともなく現れた一人の年増女性が立ちはだかり、厳かな口調で背後の人たちに向って話し
はじめた。
「マンション理事会の皆さん。こんな夜分にお集まりいただき恐縮至極です。お呼びした理由は他でもない、この303号室のお嬢
さんが我々の平和な暮らしを脅かすような“掟破り”をしたことに対し、どのような制裁を加えるかを相談したかったからです。」

わたしはこの発言にビックリして慌てて言った。
「掟破り?制裁? そ、そんなぁ・・・・わたし、そんなつもりじゃかなったんです。どうか今回だけは・・・・」
するとわたしの背後から低音の女性の声が響いた。
「手ぬるい処置は、秩序の崩壊につながるわ。ここは断固とした処分を行うべきよ。」
その言葉に呼応するかのように、今度は男性の声が響く。
「そのとおり!徹底的に事実を究明し、二度とこのような状況が起きないようにしてもらいたいものですな。理事長!」

理事長と名指しされ、わたしの前に立つと年増女性が大きく頷いた。 (へっ、この人が理事長なの?!)
「皆さんのご意見はよーくわかりました。まずは被告人にペットを理事会に無断で飼った事実を認めてもらいましょう。」
「な、なんなのこれ!被告人だなんて、まるで裁判じゃない!第一わたしはペットを飼ってなんかいません!それに・・・・」
「それに、なんなの?」
「それに、このマンションの住人の中にも動物を飼ってる人がいることを知ってます!」

その瞬間、部屋全体が凍りついたかのようにピリピリした険悪な空気が流れた。
「あなた、面白いことを言うわね。動物を飼っている人がほかにもいるですって?あはははははは、そのとおりいっぱいいるわよ。」
理事長の年増女性が笑い声をあげる中、背後の人たちがゾロゾロと移動してわたしの前に整列した。
それを見てわたしはあらためて驚いた。
彼らは手に手に様々な得体の知れない動物を携えているではないか!

「この人たちはね、それなりの手続きを踏まえ多額の登録料を支払ってペット飼育資格者として認められた人たちなの。
あなた、登録料の50万円、即金で用意できて?」
「ご、50万円ですって!! そんなお金ありません!」
「それじゃあ今からあなたがペット飼育資格者として適しているかどうかの特別審査を受けてもらうことにします。もし審査を通過する
ことができたら、今回の件は不問とすることにしましょう。理事会の皆さん、それでいかがでしょうか?」
理事長が解決策を投げかけると、理事会メンバー全員が無言で頷いた。
「と、特別審査?なんなんですか?それ・・・・・。入居の時にそんな話聞いてません。」
焦りまくるわたしのことなどまったく気にせず、理事会メンバーたちは椅子のまわりを取り囲み、わたしのからだを力づくで押さえ
込むと手足を椅子にしっかりと革のベルトで拘束してしまった。
「あぁっ、やめてください!いったい、なんのマネなんですか、これ!?」

※この物語はすべてフィクションであり、登場人物および団体は実在しないものであります。